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ちゃんとした教育を受けてないと、教育ってどういう風になればいいんだろうかなんて想像もつかないかもしれない

投稿日:2009年5月24日 更新日:

ちゃんとした教育を受けてないと、教育ってどういう風になればいいんだろうかなんて想像もつかないかもしれない
って、そう思う。

アメリカでは、教師にとても尊敬の念を払うと聞いた。
教師、それに政治家や裁判官はも、尊敬すべき存在だと家庭でも教えるらしい。
しかし、それは不正をせずに誠実にやっている人に限っての話で、それ以外の人は教師と認めすらしないという。
それを聞いてちょっと笑った。

日本ではいくらダメ教師でも一応人間としての存在は認められてるから、優しいのかもしれない。
しかし良い教師っていうのは本当に少ないっていうのは世界共通の課題らしい。
良い教師に教育を受けることの出来たラッキーな人間なんて本当に一握りだろう。

英文のエッセイで教師に関する興味深い話を読んだ。その筆者によると教師は大きく3タイプに分けられるという。
①The positive teacher
②The neutral teacher
③The negative teacher
(出典元 成城大学入試問題・大元の出典は不明)

面白いのは②の中立的な教師が多いって言う指摘だ。
どんな教師か想像がわきにくいかもしれないが、
要領よくマニュアル通りに仕事だけこなして、生徒や学問に対してまったく関心がない教師ーといえば想像がつくだろう。
いかんせんそういった教師は、最低ラインは越えているから罰しにくいし、多くのさばってしまうんだろう。

私は幸運にも①の良い教師に巡り会ったことがあると自負している。このエッセイでも触れられてるように、そういう教師は様々なことに関心があり、生徒にも感心を示し、名前や情報を覚えて、いろんなこと、つまりマニュアルでは給料にならないような余計なワーク、もやってくれるのである。
教育っていうのは長期的に見ないと効果がわからないと言うが、私はその先生に教わってとても人生にとってプラスになったと思っている。
そういったいい教育を体験し、これを自分も後輩や子供達に返したいって気持ちになるのがベストだと思うのだが、いい教師がいないからその連鎖が切れているのだろう。

NHKの番組で東ティモールの高校生たちの現状を見たが、学びたいという意欲が違う。
彼らは経済的に貧しくて、大学に行くことが非常に難しい。奨学金が出される基準も厳しく、兄弟や家族の犠牲の上に大学に行かなければならないから、学ぶことに非常に真剣だし、積極的である。自分が学ぶことで、多くの人に何かを還元したい、ということも考えているのだろう。
本来学ぶということは誰かのためになろうと努力する過程に存在する事なのかも知れない。
なんのために学ぶのか、それを裕福な僕らは忘れがちだ。
(それと、たった50ドルで一年の授業料が賄えると聞いて、それくらいの金額なら何とかならないのかな、と思った。つまり最低限の教育はいくら東ティモールの人でも、貧しい人でも受ける権利があるし、受ける必要があると思うのだ。人間が地球で集まって暮らしていく上で、上の人から下の人まで全員が最低限の知識と考える力を持っていれば、つまり底上げができれば、世界はもっとうまく動いて行くに違いないし、それこそが理想の社会だと思うのだ。
底上げっていう概念は他のエントリーでも触れたように意味が大きい。)

やはり、何のために学ぶのかという命題は常に生徒に提示していかなければならないと思う。
何のためわからなくてもいいから、とりあえず覚えればさせればいいという事柄も、もちろん存在する。赤ちゃんに対する教育なんかはそうだ。彼らに説明しても無意味だからだ。
でも、中学生はどうだろう?高校生は?
「何のためにやってるのか」と、「とりあえずやれ」のバランスについてはよく考えなければならないだろう。

数学の教師を目指してるという人のエッセイを読んで、印象に残ったのは、数学は将来なんのために役に立つのか説明することは非常に難しい、ということだ。確かに、高校生時に将来何をやるのかわからない生徒達に一般化して数学の使う場面を教えるのは難しいことだと思う。
僕個人の意見としては、数学はクリエイティブな作業をするときのツールとして役に立つと思う。建築では構造はもちろん、造形美を考えるのに双曲線や黄金比など数字のマジックが必須だし、経済だって数字のマジックの力を借りているだろう。
でも、彼が言うにはそういったツールとしての数学、つまり他の分野で役に立つための数学ではなく、数学の範囲内で数学の面白さを伝えなければならないという。それはどういう事だか、よくわからないし簡単に実行できる訳じゃないと思うが、例えば数学の論理・考え方のことだろうか。定義を一つ一つ積み重ねていって、大きな定理を証明することができる、っていうのは確かに面白いかも知れない。しかし、基本的な事がわかってないと行けないから、一般大衆に落とし込むのは難しいだろう。

少人数制にすればいいんだろうか?日本全体として少人数制を求める気運が高まっている気がするが、少人数制はメリットばかりではないと思う。もちろんなにかを理解するには早道かも知れない。しかし、勉強は継続するという面も大事である。
長期的に見ると、人間は必ずだれる。そういう生き物だから仕方ないと思う。だからこそ、一緒に同じペースで勉強する仲間をみてモチベーションを上げて、勉強を継続することをサポートしなければならない。
(誰かの行為をみて刺激を受けてモチベーションが上がるという仕組みは、バイオリズムの差異にあると思う。僕が眠いとき、他の人が眠いとは限らない。たったそれだけの違いでも、僕は寝ちゃダメだっていう気持ちになる。誰かが自分と違うリズムで行動している。そういう事実が人間のやる気を相互に補完してると思う。これは人間は一人暮らししちゃいけない、っていうエントリーの話題にもつながっている。)

あと、ダメ教師の問題はどうすればいいんだろうか?先の教師を3つのタイプに分けたエッセイでは、ダメ教師と中立的教師はもっといい教師になるように、教育すべきだと言っている。数学の教育について考えてた彼は、先生を教育する先生がもっと台頭してくるだろう、と言っていた。また、テンションの高い授業を継続できるいい教師なんてそうそう存在しない、とも言っていた。
まあ、ほとんどはその通りだと思うが、今いる教師をリサイクルできるかははなはだ疑問だ。教育の上手さは経験値だけでは補えないと思う。いくら修行を重ねたからってダメなモノはダメだ。この論理から行くと、数年ごとに教育免許の更新テストを行うだとか、そんなアイディアは無効である。僕はそう思う。教師を教育していくっていう考えも疑問だ。
僕は今でもひそかに行われている、学外教師をもっと増やせばいいと思う。今の世の中ではいい人材というのは、収入が多い仕事だったり、やりがいのある仕事に流れていってしまっている。もちろん、教師も非常にやりがいのある仕事だと思うのだが、待遇が悪い。それに夢がない。なので、経営者・ビジネスマンに多く流れてしまっている現実だと思う。
そういった業界のプロフェッショナルがもっと子供達の教育に関わる社会になればいいと思うのだ。それには負担を減らして、気軽に教育現場に参加できる仕組みをつくる必要がある。教育のワークシェアリングとして、非常勤講師の割合を増やして教師の幅を広くすればいいだろう。
今の時代では、そういった外の業界に居る人間の方が能力が高いし、いろんなことを経験している。教育のテクニックなんてそんなになくても大丈夫だろう。外の業界の人が何に向かって何を努力したかが必ず生徒に見えてくる。尊敬できる部分があると生徒は先生に惹かれるし、学ぶ意欲もわくだろう。
別のヒーローのエントリーにも書いたが、やはり希望・夢が徹底的に足りない。まず生徒への希望を十分に与えよう。
そのあとは教師を目指す人間にも希望を与えよう。
教師の待遇を良くして、教師への憧れの気持ちを高めてやれば、50年・100年単位で、立派な教師が数多く生まれてくると思うのだ。
あと、成果主義も必要じゃないだろうか。何を基準として評価するのかは非常に難しいが、学校のレベル付けとかでイギリスの教育制度大崩壊したようにではなく、学校のレベル付けとかじゃなく、教師自体の待遇を上げるための評価制度を樹立すべきなんだと思う。

現代の教育の問題はまだまだ知らないことが多いので、関心を持って触れていきたいと思う。

少人数制はいいのか?
ダメな教師はどうするのか?

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